SD閑話-11  2010年12月21日 松本憲洋(POSY Corp.)
タイトル:「エッセイ 極北の商都;ベルゲン」


システム・ダイナミックスとは直接の関係がない散文です。

ノルウェーの国民性
今年はノーベル化学賞を二人の日本人科学者が受賞し、選考直後から授賞式までの間、日本国内で明るい話題となりました。ノーベル賞はアルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて1901年に創設され、その選考をスウェーデン・アカデミーが行い、授賞式はノーベルの命日の1210日に、ストックフォルムのコンサートホールで開催されると記憶していました。ところが、今年、中国人作家・劉暁波氏の受賞で外交問題に発展したノーベル平和賞は、他の5分野のノーベル賞と選考方法も受賞式の開催場所も違うことに今頃になって気付きました。ノーベル平和賞は、ノルウェー・ノーベル委員会で選考され、授賞式はオスロ市庁舎開催されると言うことです。ノーベルの遺言により、平和賞の選定がノルウェーで行なわれるのは、アルフレッド・ノーベルが生きた時代、スウェーデン王国とノルウェー王国とは同君連合を組んでいて、さらにノルウェーは平和を探求する方針を国際的に表明していたからだと言われています。

ノルウェーは8世紀頃からバイキングが勇猛果敢な国であったように、もともと強い独立国家だと考えていましたが、スウェーデンとの同君連合の前も、14世紀半ばからデンマークの属国で、ノルウェーの首都はデンマークと同じくコペンハーゲンでした。1814年にスウェーデンとの同君連合という形式でスウェーデンの支配下に入ったのも、デンマークが味方したナポレオンが戦争で敗れたので、デンマークからスウェーデンに引き渡されたからでした。その状態が1905年のノルウェー国会での独立宣言による独立まで続いたようです。

国土の面積は日本より僅かに広いですが、人口は神奈川県の半分程度ですから、ヨーロッパの最貧国の一つに数えられていたノルウェーが、平和を探求し、福祉に厚く、男女平等の国として国際社会で存在感を示し、経済的にも発展してきたのは、1969年に発見された北海油田によることは間違いのない事実です。スカンディナヴィア半島の西海岸を「きんつば」の薄皮のように覆う国土が、海底油田の領有権をもたらしているわけですから、本当に幸運な極北の国です。

しかし、石油資源の恵みだけに頼っているわけではありません。弱小国が故に中立主義をとったにもかかわらずナチス・ドイツに占領され、国王は政府と共に亡命した経験を持ちます。その間も労働党政権が弱者救済の福祉政策を掲げて国家の建設を進めるとともに、戦後の国防面では、北大西洋条約機構に加盟し、徴兵制敷いて国防力の整備も進めています。このような周辺国からの迫害に耐えた国民の歴史がそうさせたのでしょうか、1972年と1994年の欧州連合への加盟に対する国民投票では加盟案が二度とも否決され、現在も欧州連合へ加盟していない欧州の数少ない国となっています。したがって、通貨単位もユーロではなくノルウェー・クローネのままです。私はこの10年強、ノルウェーの会社とビジネス関係を築いてきましたが、弱小国でありながらも独自路線を選択し推進する国民性は、日本人に似た素朴さの裏側に、相当のしたたかさを併せ持っているように感じています。

北欧の小国にとって脅威となってきた大国は、ロシアとドイツのようです。特にドイツは、第二次世界大戦でのナチス・ドイツによる占領だけではありません。13世紀ごろから始まったハンザ貿易ではドイツ商人がノルウェーの海産物の交易権を独占し、13世紀末には当時のノルウェーの首都ベルゲンにハンザ同盟の4大都市の一つとして事務所を開設し、現在のブリッゲン地区の旧市街(世界遺産になっています)を形成しました。おかげでベルゲンは経済と文化の中心として繁栄しましたが、その後17世紀までの400年にわたり、商業面でドイツ商人の支配を受けたようです。

私が関係してきたビジネスの相手であるPowersim Software AS(通称、パワーシム社)はこのベルゲンにあります。ベルゲンはノルウェーでは2番目に大きな都市ですが、人口は25万人で、落ち着いた雰囲気の住宅はリアス式海岸線のすぐそばまで迫る山肌に張り付くように建っています。日本の街に例えるなら、神戸をずっと、ずっと小さくしたような、あるいは尾道をちょっとだけ大きくしたような、潮の香が似合う古都です。

2010年夏に、私はこのベルゲンを少しだけゆったりと旅する機会を得ました。

サーラ! サーラ!
それは突然でした。オスロ発811分、ベルゲンに1452分到着予定のベルゲン急行の中。通路を隔てた座席で喉から絞り出すような悲痛な叫び、サーラ! サーラ! サーラ!...

驚いて車窓に映る残雪の山並みから顔を向けると、乗車するときに話をしたカナダの70歳半ばと思われる老婦人が、向かい合う座席の間のテーブルにうつ伏して目をつむっています。それだけなら眠っているようにも見えますが、ご婦人の肩をゆすって叫ぶその夫の悲痛な叫び声は尋常ではありません。

どうしよう?と、とっさの判断ができないでいると、一つ先の座席のドイツ人夫婦の夫が走って車両から出て行き、間もなく車掌と医師と名乗る乗客を連れてきました。その医師は診察道具を何も持っていませんでしたが、血圧が下がっている、だれかアスピリンを持っていませんかと問いました。生憎我々は、アスピリンを携帯していませんでしたし、仮に携帯していたとしてもボストンバッグのどこかで、探し出すまでに長い時間がかかったと思います。すると、そのドイツ人の乗客がありますと言って、網棚のかばんから直ぐに取り出し医者に渡しました。その錠剤を口にした婦人は意識を取り戻し、医者は血圧が戻ってきたと脈をとりながら言いましたので、周りの乗客が安堵したのは言うまでもありません。直ぐに周りの皆で婦人を抱き上げて、隣の車両の長椅子に移しました。

アスピリン? 私は痛み止めだと思っていましたから、血圧が下がって、どうしてアスピリンなんだろうと旅行中ずっと不思議に思っていました。帰ってから心臓内科が専門の友人に尋ねましたら、血液の凝固抑制作用を期待して、脳梗塞や心筋梗塞の再発予防に使うそうです。その乗客の医者は、婦人の血圧低下が心筋梗塞によるものと判断したのだろうとの彼の推測です。なるほど。もう一つ疑問が残っています。なぜ、あのドイツ人の乗客は車掌だけでなく、医者も一緒に連れてくることができたかです。日本の新幹線でもたまに耳にします車掌による医者を求める車内放送は聞かれませんでした。これは今だに疑問のままです。

この列車では色々な出来事がありました。列車の旅行では、大きなかばんを置く場所を確保するのは大変です。我々はオスロの駅に少し早めに着いて、プラットホームに入線してきた列車に直ぐに乗り込んだので、二つのボストンバッグを自分たちの椅子の後に保管することができました。すると、そのあとからやってきた前にお話ししたカナダ人の夫妻が、ここは自分たちの席の後のスペースだと不満そうでしたが、荷物は一先ず別の場所に保管しましたので、互いに切符を出して比べると座席番号は全く同じです。ノルウェー鉄道もダブル・ブッキングをするんだと二人で驚き、車掌に話しましょうと待ったのですが、車掌が一向に来ません。それで、もう一度切符を比べると、座席番号はやはり同じです。しかし、日付欄を見ると、その夫妻の切符は明後日の座席指定でした。おじさんの怒ったこと、怒ったこと、もちろん私に対してではありません。彼が頼んだトラベル・エージェントに対してです。しかし車中では、もうどうしようもないので車掌に事情を話すと、幸いにも通路を挟んで反対の席が空いていたというわけです。

ベルゲンへの道半ばで、車内放送がありこの列車はベルゲンまで行かないで途中で引き返すと言いだしたのです。周りの乗客は、向かいがオーストラリア人夫妻、通路を挟んでそのカナダ人夫妻、その向がハンガリー人夫妻、その後ろがドイツ人夫妻とさすがにベルゲン急行は国際色豊かな列車ですが、ノルウェー語と英語の車内放送を皆がよく聞き取れません。どうも強風で木が倒れたと言っているようなので、線路がそれで塞がれたのだろうと話していたら、オスロ−ベルゲン線で最も高い1222mのフィンセ駅に到着しました。この駅では何事もなくてもしばらく停車して、乗客が散策を楽しめることになっていましたから、乗客は下車して湖とその後の雪山に見入っていました。しかし、一向に列車に戻れとの放送がありません。それどころか、食事をご馳走するから駅舎のレストランに集まれと放送がありました。

結局、3時間ほど停車してベルゲンに向けて出発しましたが、その直後にサーラさんの異変が起きました。予定外の疲れが原因になったのかもしれません。列車は、ボス駅から引き返すとのことで、ボス駅でベルゲン急行に並行して停車していたローカル列車に乗り換えさせられ、約1時間後に5時間遅れでベルゲン駅に到着しました。帰ってからノルウェー鉄道に問い合わせての話ですが、原因は倒木による電力線障害だったそうです。列車の遅れはフィンセ駅でごちそうになったノルウェー料理でチャラなのかなと思っていましたが、そんなことはなく、1時間以上遅れると料金の50%の払い戻しを求める権利があるのだそうです。我々は既に日本に帰っていましたので送金費用の無駄を考えて、ノルウェーの国境なき医師団に寄付してくれるようお願いしました。ノルウェー鉄道は問い合わせにも迅速にそして親切に対応してくれます。観光立国を目指すには、ディジタル情報環境を使った個々人に対する適切な対応が、好ましい「ディジタル口コミ」をもたらす上で不可欠であると、このノルウェー鉄道の対応からも強く感じました。

ベルゲン市の鳥瞰図
フロイエン山に登るとベルゲン市を鳥瞰できます。標高320mのフロイエン山の頂上に登るには、ベルゲン湾の泊まりにある魚市場から2,3分緩やかな坂を登ったところに建つ白い漆喰塗りの駅からケーブルカーに乗ります。30度に近いような急な傾斜を5、6分登ると、頂上駅に到着します。ケーブルカーを降りると直ぐに素晴らしい眺めの展望台です。その突端から鳥になって海に向かって飛び出したい気持ちになります。丁度、離陸したての飛行機の眺めが何時までも続くのです。直ぐ東の麓から、市電(トラム)が青虫のようにノソノソと動き、トロルハウゲンのグリーグ博物館に向かっています。自動車が街中の道路を、ありのようにコチョコチョと隊列を組んで進みます。海の上では、漁船がほんの少しずつ白い航跡を描いています。全てがゆっくり、ゆっくりと進む世界です。

街の東側を眺めながらつぶやきました。人工の池の周りに並んで建つのが美術館で、池の南に建つ古い建物が我々が泊まっているラディソン・ブルー・ホテルだね。ずっと東で目立っているのがヨハネス教会の尖塔で、その右がベルゲン大学、教会の左側は海洋博物館とベルゲン博物館だよ。ベルゲン大学が建つ丘の下にある埠頭から、我々もトロンハイムまで乗船する予定の沿岸急行船が出航するんだ。あの船はノルウェー北端のノールカップまで9日間かけて旅客と貨物とを毎日運んでいるそうだ。リアス式海岸の海岸線に小さな村落が点在するノルウェーでは、鉄道が南北に通じていないこともあり、沿岸急行船は物流の幹線だよね。

目を北に転じてつぶやきを続けました。展望台の真下が魚市場だ。ベルゲンはハンザ同盟の時代から、今も変らず海産物の集積地だ。あの市場で、小エビ、蟹、色んなキャビア(魚の卵は何でもそう言うらしい)が山盛りに入ったサンドイッチやオープンサンドを買おうよ。魚市場を通り過ぎて右に進むと、世界遺産の木造家屋が建つブリッゲンだよ。

 

 

私はベルゲンを今までに二度訪れています。1999年にPOSY社設立の打ち合わせに来て、2000年にはシステム・ダイナミックス学会の年次カンファレンスに出席するために訪れました。その当時、パワーシム社はブリッゲンにあるオフィスビルに居を構えていましたが、昨年、ベルゲンの西端の産業集積地にオフィスを移したようです。後ほど訪問して聞いたところでは、ブリゲンに居た頃は、通勤に車で1時間半はかかったと言うことですから、ベルゲンの朝は相当な交通渋滞のようです。

さて、ブリッゲンの先は公園になっていて、ベルゲンがノルウェーの首都であった13世紀の国王によって建設された石作りのホーコン王の館やデンマークの支配下になっていた16世紀に建設された要塞ローセンクラッツの塔が建っています。現在、ホーコン王の館はベルゲン市が管理していて、その広いホールは王室や公式のパーティなどに使われていると、入口の若い女性職員が説明してくれました。そういえば、2000年のシステム・ダイナミックス学会のバンケットはここで開催されたことを思い出しました。

ベルゲン全体を知るにはフロイエン山に登るに限ります。ただし、天候には要注意です。天気が良くないとガスがかかって視界は全く開けません。ベルゲンは雨が多いのと、天気の極端な急変がありますから、たとえ快晴でも雨具を持ち歩くのは当たり前なのだそうです。我々もオスロから5時間遅れで着いた夜に、晴れていたし気温も高かったので、薄着でブリッゲンの入り口にあるノルウェー料理のお奨めのレストランへ行きました。運よく予約なしで席がとれ、バカラオという干ダラをトマトで煮込んだ料理をおいしくいただきました。ところが店を出ると気温は急激に下がっていて冷たい雨です。雨の降る中をホテルまで歩いて10分間、体が大きく震えて、本当に心臓が止まるかと思いました。7月初めでしたが。

お話したフロイエン山からのリアルタイムの映像が、以下のURLでご覧いただけます。
http://www.bt.no/kamera/vaerkamera/article161.ece


エドヴァルド・グリーグ
ベルゲンで一番の有名人はグリーグでしょう。システム・ダイナミックス学会のエクスカーションでもトロルハウゲンのグリーグ博物館へ行きました。その時は貸し切りバスでしたが、かなり時間がかかった記憶がありましたので、前もってグリーグ博物館に交通手段を訪ねましたら、新しくできたトラムに乗るようにとの返事が直ぐにありました。我々は魚市場の前の観光案内所で「ベルゲン・カード」を購入していましたので、交通機関は全て無料、博物館などは割引で入場できます。新しいトラムでは乗車券にスイカやパスネットのようなICカード方式を採用したようで、乗車したときと下車するときにセンサーにかざす必要があります。その案内人として若い女子学生が主要駅とトラム内に詰めていて、お年寄りなどに親切に説明していました。我々もベルゲン・カードでしたが、一応説明してもらいました。アルバイトなんでしょうか、ボランティア活動なんでしょうか?はつらつとした感じの良い女子学生でした。

トロルハウゲンには“Hop”と言う名前の駅で降りれば良いことまでは彼女たちに聞いたのですが、トラムを降りると、その後どう行けば良いのか全く分かりません。有名な博物館ですから道案内の看板がちゃんと立っていると思っていましたが、全くの期待はずれでした。降りたのは、若い男女二人組み、もう少し年齢が上の男女4人組、そして我々です。男女二人組みがすいすいと歩き始めたものですから、4人組と我々はそれに付いていくことにしました。山の中に向かいます。家はポツポツとあっても人の気配はしません。道が分からないと長く感じるものです。登り坂でしたから、20分以上は歩いたと思います。なんとか毎日開催されているランチ・コンサートの始まる前に到着できました。

この博物館は、グリーグが22年間住んだ自宅で、フィヨルドを目の前にして建っていて、ホールの下のほうに降りていくと作曲するのに使っていた小さな小屋が残っています。ホールでは、50分間程度グリーグの曲の解説とピアノ演奏が行なわれます。前回も同じ女性のピアニストで興奮を覚えた演奏でしたが、今回も演奏を聞いた後で高揚感を抑えることができないほどでした。ベルゲンをまた訪れる機会があるなら、ここへは必ず来たいと思っています。

ベルゲン市内の魚市場の傍の教会で、6月14日から8月21日まで、Grieg in Bergenと題したコンサートが1週間に4日間、21時から23時過ぎまで開催されています。我々が宿泊している期間では、トロルハウゲンを訪れた日にソプラノの演奏会が予定されていましたので、聴きに行きました。細い声でしたが透き通る歌声が教会の中で快く響き、実は睡魔との闘いでした。ノルウェーの人は夏になるとどうしてこんなに元気に長時間起きていることができるのでしょう?このコンサートではピアノだけの演奏もあったのですが、その曲が昼のランチ・コンサートと同じ曲目でした。解釈により演奏がこんなに違うのかと驚く経験をしました。

料金のことを話すのは不適切かもしれませんが、昼のランチ・コンサートが日本円で約1000円、夜のソプラノのコンサートが約2000円です。小さな25万人の街ですが、このような家庭的なコンサートが絶えることなく続けられるのも、外からベルゲンを訪れる訪問客のお陰であろうと、観光と文化レベルの維持とが上手い循環を続けていることをうらやましく思いました。

船と海
日本はイギリスと同じく海岸線が長い島国です。ノルウェーは島ではありませんが、国土の幅が狭く、海岸線が長い国です。今回、ベルゲンでは海洋博物館を訪問しました。オスロでは、バイキング船博物館、フラム号博物館、ノルウェー海洋博物館を訪問しました。トロンハイムでも海洋博物館を訪問しました。








正直言って、バイキング船博物館とフラム号博物館以外は、それほどめずらしいものが展示されているわけではありません。特にトロンハイムの海洋博物館は
15年以上前にも何度か訪れていますが、その当時と展示品は全く同じだと思いました。受付で北欧特有の色白のかわいいお嬢さん方がおしゃべりしていたのでそのことを話したら、どっと笑っていました。

それでも良いのです。海洋国家であるからには、日本にも海洋博物館がもっとあれば良いのにと感じるのは私だけでしょうか。
さすがにこんな問題はコスト・パーフォーマンスでは計れない対象です。例えば、旧商船大学や高等商船で、子供や一般人を対象とした博物館を学校に附属して運営するのも海洋国日本を国民にアピールする上で効果的ではないでしょうか。

なお、ベルゲンの海洋博物館には、東京海洋大学の庄司邦昭教授が書かれた「船の博物館ガイド(2)ベルゲン船舶交通博物館」のコピーが配布用棚に置かれていました。ちょっとした驚きでした。


この後、ベルゲンから沿岸急行船に乗船し、ガイランゲル・フィヨルドをエクスカーションで楽しんだ後に、トロンハイムに向かいました。夏の短い航路ではありましたが、至って穏やかな、のんびりした航海でした。


                                                    SD閑話-11 了