SD閑話-寄稿-4 2012年2月16日
明神 知 : システムダイナミックス学会日本支部会員
大阪大学山岳会理事
エッセイ:「マッターホルン登頂記」
学生時代に一度挑戦したものの悪天候のため登頂の機会を得なかった明神さんが、既に中年と呼ばれて久しい昨年、念願だったマッターホルンに再挑戦し、遂に登頂に成功したそうです。その喜びのエッセイを寄稿していただきました。
登頂成功の裏には、周到な準備、幸運な天候、そして何よりも忘れてはいけない奥様の内助の功があったそうです。既に、初期高齢者の仲間入りをしている私が読んでも勇気が湧き立つエッセイです。
さて、明神知さんは、約10年前からシステム・ダイナミックス学会日本支部の会員で、私にとってはSD関係の古い友人の一人です。明神さんはSD関連の活動として、IT投資関連他の複数の論文をJSD学会誌に発表している上級IT技術者です。
現在、株式会社オージス総研で、エグゼクティブ・フェローの要職に就き活躍中です。
(松本憲洋)
はじめに
32年前の夏、私達はマッターホルンに積もった真っ白な雪に呆然として何度も振り返りながら登頂を諦めて下山したのでした。
1979年の7月26日から8月25日まで大学山岳部の友人と二人で1ヶ月のヨーロッパアルプスに遠征しました。8月7日にモンブラン、12日にモンテローザを登って、最後の山としてとっておいたマッターホルン! 13日から15日まで快晴だったのに、モンテローザ小屋でもらった風邪を引き込んで休養したのがたたり、15日にマッターホルン登頂のベースとなるヘルンリ小屋に入ったものの、快晴はここまで。この日は過去最高の登頂者数で小屋はごった返していました。明日は私たちもと勇んで起きた16日朝2時半、なんとまわりは猛吹雪。こんな日に小屋に居るのは私たちぐらいのもので、お前達はシェルパか?と小屋番にからかわれてしまいました。17日には晴れ間が出たものの、夜の間に積もった雪でヘルンリ小屋のまわりは15cmほどの積雪です。マッターホルンはすっかり白くなっていました。一般ルートであるヘルンリ稜は、べったりの雪(写真)が張り付いています。ガイドも登らないというのでルートも分からず、危険なので断腸の思いで下山しました。
それから32年。昨年2011年8月3日に念願のマッターホルンのリベンジ登頂ができたのです。1985年に家内と近くをハイキングしたことがありますが、なぜまた登ろうと決心したのか?それは、山岳部OBの山岳会長が55歳の時にマッターホルンを登ったという話を随分前に聞いておりました。私も同じ年齢となり、体重も増えて運動不足で腹筋、背筋が衰え、腰痛が出てきたのです。このままでは永遠に登れなくなるとの思いが強くなってきました。時期的にも昨年、長男が初月給をもらえる身分になったこともあり、年初からトレーニングを始めたのです。もう定年も近い56歳の腰痛持ちのおっさんのバタバタ登頂記であります。
1.マッターホルンって?
まず、マッターホルンとは? 日本では北アルプスの槍ヶ岳が「日本のマッターホルン」と言われたりします。要するに尖がった山の代表がマッターホルンです。高さは4478m、ピラミッド型の4つの斜面を持つ端正な姿は霊峰として恐れられて1857年ごろからの初登頂の挑戦までは登ることは不可能と思われていました。氷河の上にオーバーハングした北壁、傾斜がきつくて両肩を怒らせたような東壁、肩と呼ばれる平坦な尾根が8合目まであって頂上までゴツゴツしたイタリア側の南壁、右側に跳び箱のような肩があって左に尖塔のある一番槍ヶ岳に似ている西壁、の特徴的な4つの斜面です。それら斜面を分ける稜線のなかで、スイスのツェルマット側から見える有名な東北の稜線がヘルンリ稜です。ほかに南西のリオン、東南のフルッケン、北西のツムットをあわせて4稜です。
一見して登れそうだったのでしょうか、当初はイタリア側からの挑戦(リオン稜)が続きました。そしてスイス側からの何回かの失敗の後、イギリスの挿絵画家であるエドガー・ウィンパーの一行7人で1865年7月14日に初登頂しました。ウィンパーはイタリア側が順層で、ホールドがなく、スイス側は逆層でしっかりしたホールドが多いのを7回の試登で知っていたのです。この初登頂は下山時に、最も傾斜のきつい頂上スロープ直下、肩の上部で4人が滑落するという悲劇で有名です。このときに切れた麻縄のザイルがツェルマットの山岳博物館に生々しく展示されていました。
事故のあったこのあたりは、グレーターサミットのNHK女性ディレクターも苦労していたところで最大の難所です。私も左手にチェーン、右手にFIXザイルを手首に巻いて、ハングした岩場を3度目にやっと重い体をもちあげて突破することができました。
出展:http://www.proguiding.com/tripreport/view/the-matterhorn-via-the-standard-route-hornli-ridge
山稜の平均斜度が45度前後もあって、今でも相当のクライミングを強いられる人気の山です。最も易しい一般ルートがヘルンリ陵です。手がかりや足場のしっかりした岩登りの基本的な中級レベルで技術的にはさほど難しくはないのですが、1200mに及ぶ長さ、高度、午後から崩れる天候、ルートファインディングの難しさ、混雑による待ち時間といった様々な要素が絡んでおり、すぐに登れる山ではありません。特に天候待ちできる時間的な余裕が一般の社会人にあるわけもなく、どうしてもチャンスが作れるのは中高年になってからです。そのときには体脂肪たっぷりの太ったおじさんになっているのです。ルートはガイドを雇えばなんとかなりますが、天候の変化や混雑度を考えるとスピード登山が求められます。ガイドは登山者が4003mにあるソルベイ小屋まで2時間半で登れるかどうかを厳しく見極めます。ここまであまりに遅いとガイドは下山を勧めます。まずは、ほとんど休まずに10時間の登攀を継続できる体力作りが最大の課題でした。
2.訓練
2.1 日本にて
最初は、長距離歩くことからはじめました。 私の自宅は六甲全山縦走の始まる須磨浦公園の山上遊園の北側にあるので、ご近所の鉢伏山、旗降山、鉄拐山、横尾山といった2、300mの低山歩きから始めました。 これを徐々に六甲全山につなげていきました。 高取山、布引、摩耶山、六甲最高峰と順番に距離を延ばし、最後に7月16日の朝6時に出発して宝塚に午後7時の11時間かけて、高温多湿の六甲全山50数km、登高度1500mを汗だくで完走しました。 山々にある毘沙門天、高取神社、塩尾寺にマッターホルンの登頂祈願をしながら行ったのですが、この全山完走できたという自信が最後の粘りとして生きました。
また、私の山登りの原点である大学山岳部が部員減少で存亡の危機に陥っておりました。その応援隊長に任命されたものですから、現役とともに新人勧誘を兼ねてインドアのクライミングジムなるものにも初体験しました。またGWには新人を連れて雪の蝶ヶ岳2664mにも登り、全く様変わりした山道具を少しずつ買いそろえていきました。
また、現役の蓬莱峡のクライミングトレーニングに混じって参加して、アイゼンクライミングをやっておきました。こういったことで昔の感覚を少しは取り戻していきました。年齢を重ねると筋力の衰えと体重増加によってバランス感覚が極端に失われてしまうので、少しはクライミングに耐えられる体になって行ったかなと思います。 ただ梅雨の影響もあって出発前に十分体重が落とせなかったことが、後半のバテの原因になったのは否めません。
2.2 現地にて
いよいよ出発です。7月27日に神戸空港に車を置いて、関空までベイシャトルで行きました。訓練した六甲の山並みが見送ってくれていました。
(1)アルパインセンター
28日にツェルマットに着くと、早速アルパインセンターに行って、あらかじめメールで予約しておいた7月31日登頂でガイドを申し込みました。 ところが、今は雪が積もって不可能と言われてしまいました。2日なら可能性があるというので変更し、1日に最終確認して、決まったらガイド料を支払うことになりました。29日のRifferhornでのクライミング訓練のほうは予定通り申し込みました。実は、このときまでガイドによるマッターホルン登頂のためには、事前のクライミング訓練を受けて合否判定が必要だと思っていたのです。高度順応は自分でブライトホルンに登ることにしていました。
(2)岩登り訓練
29日は朝からクライミング・ゲレンデとして有名なゴルナーグラート登山鉄道でツェルマットに一番近いところにそびえる岩山のリッフェルホルン(Rifferhorn、2928m)に向かいました。ガイドのマーチン(Martin
Lehner)、私と一緒に訓練を受けるスイスの大学のフランス語教授のピーターと3人です。この岩山はマッターホルンと岩の感覚が同じで、クライミングの難易度は少し難しいのでクライミングとクライミングダウンの訓練には最適です。真下に見えるゴルナーグラート氷河の高度感がすごくて、モンテローザなど4000m級の山々を背景に楽しく登れるところです。マッターホルンの下りは、ガイドが繰り出すロープに完全に体重を預けて背中を真下に向け、岸壁と直角に立って懸垂下降するのですが、この訓練もみっちりやりました。ガイドの試験のクライミングルートも登って、大変楽しい訓練でした。マーチンが言うには、息が荒いが訓練不足か?足は静かに下ろすこと。2日のマッターホルンは難しい、雪の溶け方が遅い。昨日も新雪降ったから、ヘルンリで気温が数度以上の日が続かないと溶けない。かなり絶望的なことを言うので意気消沈してしまいました。また、事前の訓練とガイドの判定は5年前までやっていたが、今は不要、自己申告でよいと。先に言ってほしかった。
(3)ブライトホルン(4164m)
30日は予定通り高度順応です。朝から、ロープウェイで行ける最高地点、3820mのクライン・マッターホルンまで登り、家内を展望台レストランに待たせて、私一人でブライトホルンを登頂しました。待ち疲れてブツブツ言われましたが、、、
さすがに4000mを超えるので、ずっと登りであることと高山病で苦しかったのですが一時間半で頂上に達しました。快晴で眺めがよく、頂上からスキーで降りて行く若者もいました。この山は天候も安定しており、アイゼンやピッケルが必要ですが、雪山初心者にもお勧めです。ガイドを雇っている人も居ますが夏山に関しては不要と思います。
(4)登頂日の決定
31日にアルパインセンターに行くと、2日は無理で3日から夏山スタートだという。2日は家内とマッターホルンを眺めるには最高で、宿泊することが長年の念願だったゴルナーグラートホテルを予約していたので3日なら諦めようと一旦キャンセルしました。
気を取り直してマッターホルンの眺めが抜群のロートホルンからスネガへのハイキングに出かけました。ロートホルンで、観光客を乗せて雄大なマッターホルンを背景にツェルマットまで飛んで行くパラグライダーをしばらく眺めていました。マッターホルンに登れないなら土産話がなくなるので、家内と別々にタンデム(ベテランと一緒に二人)で乗ることにして申し込みました。ツェルマットまでのハイキングコースには沢山のエーデルワイスが保護されており、見ることができました。
家内とじっくり話し合い、3日に登れるならゴルナーグラートホテルには家内一人が泊まることにして、8月1日は、朝からキャンセル待ちの登録にでかけました。すると何とかなると思うから期待して待っていてくれとのこと。予約している登山者のなかにキャンセルの連絡してこない人が居て、あすの10時半に決定するから来て確認してほしいとのこと。最後の望みを託して、とりあえずパラグライダーです。1日はスイスのナショナルデイです。ロートホルンから飛び立って約20分のフライトはとてもスムーズでマッターホルンを背景にして鳥になった気分でした。今晩打ち上げの花火が仕掛けてある岩山や、クライミング訓練をしている多くのクライマーがツェルマットの町の側壁の岩山に張り付いていました。ツェルマットはスイスフラン高で、レストランなどは高いのですが、今日は各レストランが手ごろな値段の屋台を出して、メインストリートは民族衣装を着た地元の人や観光客で大変な人ごみです。夜10時から始まった打ち上げ花火は、なかなか豪勢で、谷あいの峡谷にすごい反響でこだましていました。
3.いざ登頂
8月2日の朝、アルパインセンターに行くと最終決定は10時半とか。はるばる日本から来たので何とかお願いするというと、可能性はあるという。家内はいずれにしても移動なので荷造りして再度確認しに行きました。すると確保したガイドの客からの連絡がないので私が代わりに行けるという。夕方までにヘルンリ小屋に入れと。家内と別れて町外れの奥にあるクライン・マッターホルン行きのゴンドラに乗り込み、途中駅「シュバルツゼー」で降りてヘルンリ小屋に向かいました。2時間の登りで下からも見えていた小屋に着きました。いよいよ憧れの山に登れるのだという実感が湧いてきて嬉しくて仕方ありません。
明日朝は早いので稜線取り付きの岩場まで行ってみました。そこにはマリア像があって、何人かが試しに少し登っていました。夕方からはマッターホルンに雲がかかって風が強そうです。例年になく雪も多いようです。
私のガイドはライスナーというザルツブルグの国際ガイドで、シシャパンマやマッキンレーを登る一流クライマーで、スキーガイドでもある背の高い兄ちゃんです。午後6時半からガイドとの顔合わせと、明日に向けた注意がありました。ガイド登山の日本人は私を含めて4人。他の3人は長期滞在してずっとこの日を待っていた海外登山豊富な5、60歳代のおじさん達。
彼らのガイドは皆、ツェルマットの地元ガイドの若者達で明日は4時出発で、荷物は最低限にするよう注意があったそうです。登っていると暑くなるので薄着でとも指示されていました。
夕食はスープとスライス肉煮込みとポテトにインゲン、おいしくいただけました。日本人はほかにガイドなしでフリー登山される宇部の方が二人いました。アメリカ人や南米系の方も居て賑やかながらもスピーディーに食事を済ませて、ガイドによる装備点検です。水は2リットル、携帯食、アイゼン、スパッツ、手袋、ヘルメット、ヘッドランプ、ザック、パーカー、ハーネス、雨具などの確認です。ピッケルは最後の頂上稜線で必要ですが、ガイドが持っていればよいようです。他の方々は、服装を軽微にして、スパッツも着けていかなくてよいとのことでした。
私のガイドはマッターホルンを2回ぐらいしか登っていないからなのか、スピードよりも私のペースで登ってくれるようでした。点検終えると午後8時半には就寝です。小さい窓からの明かりが便りの薄暗い蚕棚ベッドは一人当たりの幅5、60cmのスペースです。両隣は若い?女性と名古屋のおじさんです。頭のまわりに、明日朝すぐに装着できるようザックやヘルメットを配置しておきました。明朝3時半から朝食で4時には出発できるようにとのことでした。
8月3日(水)、いよいよ登頂の日。私は2時過ぎから、目が覚めてじっとしていましたが、3時ごろから周りがごそごそし始めましたので、早めに起きだしてトイレへ直行です。
小屋のトイレは内部には3カ所ぐらいしかなくて、小屋の外の絶壁の上には5、6個ありますが、外は大変なので早々に小屋内のトイレに駆け込みました。朝のトイレが健康のバロメータですが、快調でした。この機会を逃すと、狭い稜線でガイドに気兼ねしながらのトイレとなります。簡単な食事をして、ガイドが順に出発時間を指示していきます。NHKのグレートサミットでガイドしていた、地元ガイドのボス、シモン・アッターマッテン(注記1)がトップで4時出発です。どうやら、この出発順は食堂の奥で昨晩のガイド達が集まって決めていたものと思われます。ここに居る登山者のグループは4種類あります(注記2)。
その種類ごとに登頂の順番を効率的に、混雑を避けて登頂を行うためにガイド達の間で代々受け継がれてきたものでしょう。現地ガイドの中で経験豊富で優秀な現役クライマーがボスですから、シモンがトップ、そしてガイドの力量と連れている登山者の状況を加味して地元ガイドグループが先頭集団となります。次に国際資格を持ったガイド率いるパーティー。私たちがこれです。彼には昨晩、何時出発かと聞いてもはっきり答えてくれませんでしたが、私の年齢も考えて最初からゆっくり出発するつもりだったようです。
結局4時半に10番手ぐらいに出発です。外はまだ真っ暗でヘッドランプが頼りですが星空の快晴です。風もなくさほど寒さは感じません。見上げれば、すでに頂上直下に明かりが見えていました。ソルベイ小屋にビバーク(緊急幕営)したフリークライマーでしょう。フリークライマーはよほどの経験者でない限り、どこでもルートがあり、日本のようにペンキでルートを書いていないので迷うことから、ガイドパーティー達の後に続いていきます。ライスナーは、アメリカ人ガイドが後から追いついてきたので道を譲って先に行かせていましたが、彼らも行き詰まってしまって、私たちも一緒に後戻りなんてこともありました。
前のパーティを待ちながら、
シモン・アッターマッテンと
私を確保するライスナー
途中で、夜明けです。とても綺麗な光の変化ですが、眺めている暇はありません。午後から天候が悪くなるという予報でしたから。先を急ぎます。
第一関門(3時間ぐらいで登らないとガイドに下ろされる)のソルベイ避難小屋に2時間40分で到着しました。遅く出たので時間待ちを考慮してくれたのでしょうか良いペースだと言われました。例年になく雪が多くてほとんどアイゼンつけていました。普通なら、ここでもう少し休むのでしょうがすぐに出発です。トップで出発したシモンのパーティが登頂して帰ってきました。連れている登山者もスイスの若者のようでした。すごいスピードです。
避難小屋の上部は微妙なクライミングが続きます。特に、肩を超えて頂上稜線に出る岩場の核心で腕力を使い果たして何度もトライ。3度目に乗り越えました。
肩から上部は雪田で易しいのですが高度で息が続かず、ピッケルも持ってないので文字通りガイドに引っ張り上げてもらいました。
午前10時に念願のマッターホルンの頂上に達しました。この日登頂の7番手ぐらいとおもいます。西のモンブラン側から雲が上がってきていたので、あまり視界がよくありませんでしたがスイス側は綺麗に見えていました。
午後から雷雨になると予想されたので頂上での余韻を楽しむ間もなく下山にかかりました。頂上直下には写真にあるガイドの守り神「サン・ベルナール像」がありました。救助犬のセント・バーナードの名前は、この聖人から取っているのですね。通常はソルベイ小屋で大休止するのですが雷雨やヒョウも降ってきて、急いでの下山です。下からどんどん登ってくるし、上からも降りてきて渋滞がはじまりました。ライスナーは時々ルートを外れて下りていくのですが、ソルベイ小屋の下あたりで私を下ろした後に、自分がラストで懸垂下降してきた後のロープが岩に挟まって取れなくなってしまいました。これはガイドとしては恥ずかしいことで、「ちきしょう!」とか言いながら、上部に居る人に大声を上げて取ってもらいました。彼は、厳しい雪や氷のクライマーとして優れているようですが、このマッターホルンのガイドとしては疑問が残りますね。臨時で来てもらったから申し訳なかったですが、、、
ヘルンリ小屋に午後3時20分に下り立ち、ほとんどアイゼンを着けっぱなしの11時間の長いアタックの終了です。マッターホルンはすっかりガスに覆われて、小屋のあたりでは小雨が降っていました。
小屋で、ライスナーから登頂証明書とバッジをもらいました。 これも、こちらから言わなければ忘れていたようです。しばらく呆然と休憩していましたが。家内から何度もメールが来ておりました。現在場所を知らせよとのこと。そういえば、この日にシャモニーに移動する予定でした。シャモニー行列車のツェルマット最終時間が午後5時半なのです。シュバルツゼーのゴンドラ最終時間が午後5時。小屋のお姉さんに聞くと、下りには2時間はかかるとのこと。ぼろぼろの体にむち打って、午後3時50分小屋を出て雨の中を走っておりました。シュバルツゼーのゴンドラ最終が午後5時だったので2時間はかかるところを雨のなか走って下りてゴンドラ最終便に乗り込み、カミサンの待つツェルマット駅に着いたのが午後5時40分。途中でツムットに降りる道に迷い込んで20分ロスしてしまったのが痛かったですね。すでに最終電車は出ておりました。計画が甘く3時間も駅で待たせていたのでオカンムリ。荷物を置いていたホテルから団体が入るので置けないと言われて荷物番もしていたから動けなかったそうです。観光案内所に相談して延泊です。
このリベンジ登頂は当初、31日として予約していたのですが、2日に延期されて、さらに3日となり、ダメもとでキャンセル待ちしていたところ臨時のガイドで対応してもらった際どいワンチャンスでした。
雪が多かったのでガイドによる夏山登山はこの3日が最初の日で、この後はしばらく天候が崩れてしまったので登る機会が少ない中での登頂。運がよかったと言えます。
4.SD的考察
登頂の成功ポイントは何か? 登頂を妨げる悪循環に陥っていないか?
SDまで行きませんが、システム思考的に私の問題を考えてみましょう。こういった問題を正面から考えると、どうにも様々なことが脳裏をめぐってまとまりがつきません。こんなときには、システム原型(注記3)をヒントにするとよいでしょう。「漂流する目標」や「問題の転嫁」あたりが、関係しそうです。夢の実現(問題)、諦め(応急処置)、訓練(根本的解決)、メタボまっしぐら(副作用)とすると、「問題の転嫁」と言えなくもないですが、むしろ「漂流する目標」のほうが、ぴったりきますね。訓練といった「改善の行動」には遅れがあり、目標と実現値の間のギャップには様々なものがあります。例えば、子供が育って親離れすると親のほうは自由に行動できるといった「時が解決してくれる」改善もありますね。図の因果ループ図の「改善行動」には、マッターホルン登頂に必要な条件(目標)のうち、ガイドを雇うといった外部調達できることと、自ら訓練して内部改善しなければいけないものがあります。自己改革がなかなか出来ないもので、目標を下げて諦めることが多いのは、皆さん納得される現実ですね。
(1)マッターホルン登頂(目標)
マッターホルン登頂には、ルートファインディング、基本的なロッククライミングのスキル(アイゼン、登山靴、三点支持)、基礎体力(長距離かつスピード登山、健腸:トイレ)、高度順応、天候(雪が溶けて安定な天候時期、午後の上昇気流による雷、霙)、ガイドとの相性(英語力、理解)、家族の理解、予備日、熱意(ガイド組合、諦めない、決める)
などが必要と思います。
(2)改善行動
上記の目標達成には、訓練(長距離歩行、ランニング、クライミング、アイゼンクライミング)、ガイドを雇う(ルートファインディング)、一発チャンスを生かす(交渉、粘り)、家族の制約開放(子供の成長、理解)などがないといけません。
これらを「漂流する目標」の因果ループ図に描くと、次のようになります。私も腰痛が顕在化せず、メタボが徐々に進んでいればきっと諦めて目標を下げていたと思います。
目標を下げると、現状とのギャップが目立たなくなって改善行動をやる気持ちが萎えていたでしょう(上のループ)。ところが腰痛が出てきて、メタボもひどく醜くなって、これではきっと一生登れないと目覚めたのです。腰痛の顕在化が逆に改善へと向かって舵を切るきっかけになった(下のループ)のですね。
5.終わりに
4日以降はシャモニーに移動して、全くの観光になりました。今から思えば、登頂後にじっくり眺めて余韻を楽しむ時間が取れなかったのが残念でなりません。そのためのゴルナーグラートホテルだったのですが。11時間のクライミングで、ずっと上を向いていたこと、FIXザイルやチェーンに頼った登りだったこともあって首と上腕の筋肉疲労がひどい。さらに、マッターホルンの岸壁はざらざらで指先の皮がボロボロに剥けました。また、下りの衝撃も大きく腰と膝の痛みはしばらく続きました。足の裏もジンジン。このような事後の疲労はありましたが、登頂の喜びに比べれば小さいことです。誰もが知っている山に登ったということは、皆さんに驚かれますし、この年齢で登って私自身の大きな自信となりました。我が侭を許してくれた家内と、勝手な休みを取ってご迷惑をかけた会社の同僚とお客様の皆様に御礼と感謝を述べたいとおもいます。
なぜ山に登るのか?これは人生と同じですね。そこにあるから、美しいから、山の向こうに何があるのか知りたいから、頂上からの眺めがすばらしいから。大学山岳部も、未踏峰がなくなり、毎年新人が入って難しい山に行けるわけでもない。おそらく、若い頃は自分が何者か分からず、自分に自信を持ちたいから登るのですね。最初は小さい山から、登れるところから、次に目標を決めて、その山に登れるように自分を変えて、周りを巻き込んで、計画を立てて、決断して実行する。これの繰り返しです。
最後に、マッターホルンを初登頂したウィンパーの「アルプス登攀記」から引用します。
彼は、挿絵画家としての観察眼と慎重さ、登山家としての不屈の精神、自然への敬意を持ち、様々な登山道具を作り出す独創の人でした。事故後に次のように述べています。
「私達登山家は、目的を定め、慎重に行動することを大切にし、無謀の行動を卑しんで来た。一歩登るにも、ある高さを登るにも、我慢と、苦しい努力が必要であり、努力することなしに、希望するだけででは、登れないことを知っている。互いに助け合うことの有益なことも知っている。数多くの困難に出会わなければならないことも、また障害と戦い、あるいはそれを避けていかなければならないことも知っている。強固な意志をもっていれば、そこに道が開けるものだということも知っている。そして私達は山から日常の生活に帰ってくる。そのとき私達は人生の戦いを戦うのに、私達の行く手を阻む障害を乗り越えるのに、遥かに力を増していることを知るだろう。過去の山での苦闘を思い起こし、山で勝ち得た勝利を回想することによって、私達は勇気付けられるのである。
私達は、登山という運動によって、肉体が生まれ変わったようになったことに誇りを感じる。山に登ったときに、目の前に展開される素晴らしい風景に、日の出や、落日の壮観に、また山や、谷や、湖や、森林や、滝の美しさに、胸をおどらす。しかし私達は、登山によって男らしさを育て上げ、困難との戦いを通して、人間性の高貴な資質「勇気、忍耐、不屈不撓の精神」を作り上げることを、遥かに高く評価する。
登山をするものは、苦しまなければならない。しかし、その苦しみから、力が生まれてくる。全体の機能が目覚めて来るのである。そして、そのように生まれた力から、楽しみが湧き出てくるのだ。」
マラソンは、山に登れないときのトレーニングで始めたものですが、東京在住の1986年頃は毎年欠かさず青梅マラソンに参戦しておりました。神戸に帰ってからは、走ることも久しくなかったのですが、マッターホルンの訓練で走り始め、その余勢を駆って昨年11月20日の神戸マラソンのフルを4時間27分で完走することができました。こちらのほうも今年は4時間切りを目指したいと思っています。
iPhoneアプリにZERMATのサイトがあって、マッターホルンのライブ画像を見ることができます。毎日のマッターホルンの様子を眺めて思い出に浸るときが至福の時間です。
さてまた次の目標を定めて挑戦し続けたいとおもいます。
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(注記1)シモン・アッターマッテン
グレートサミットのガイドでもあった、シモン・アッターマッテンは地元ガイドのボス。若いけれど優秀なクライマーでヘルンリ稜を約3時間で往復するツワモノで、「運命を分けたザイル2」にもアイガー北壁のトラバースルートの名前になっている悲劇の名クライマー、 ヒンターシュトイサー役で出演した俳優でもある。彼らはマッターホルンにそれこそ何百回も登っており、ルートを熟知している。朝4時に小屋を出発するのであるが、トップはこのボスからスタート。地元ガイドが最優先でスピード登山を競い合うのです。
ツェルマットの若き星 シモン・アンターマッテン
http://kenhai2100.com/swiss-news/2009/10/sn48-090809.html
(注記2)マッターホルンに登る4グループ
・フリークライム:
小屋泊まりの人もあれば、若者や先鋭的なクライマーは小屋のすぐ下のキャンプ地に露営していて、好きな時間に出発します。
マッターホルン初めてのパーティーは、ルートを迷いやすいのでガイド連れパーティーの後にくっついて登ることが多いようです。
宇部の山岳会の定年後の二人パーティーは、小屋泊まりでしたが私達より随分後で出発されていました。私が下山時にソルベイ小屋の下で登ってこられていましたが、このときは雷雨やヒョウでしたからソルベイ小屋でビバークしたことと思われます。
・地元ツェルマットガイドパーティー:
シモン・アッターマッテンに代表される地元ガイドに率いられたパーティーはクライムの主役。彼らはマッターホルンにそれこそ何百回も登っており、ルートを熟知している。朝4時に小屋を出発するのであるが、トップはこのボスからスタート。地元ガイドが最優先でスピード登山を競い合うのである。私のほかのガイド連れ日本人は皆さん、地元ガイド連れでした。私は一旦キャンセルしたのでアコンカグアに登った方に譲ったのです。血気盛んな若いガイドに率いられた英語がままならない日本のおじさん達は、片言の日本語で右、左と指示されて猿回しのように指示されるから、下山時には険悪な関係になって下りてこられた方もいました。
・国際ガイド連れ:
私のために探してくれたのが、ザルツブルグ在住のライスナー(Leithner Georg)。彼らはマッターホルン専門ではないのでルートは熟知しているとは限りません。
ライスナーは2回程度しか登っておらず、何時に出発するのか聞いても生返事だったのはゆっくり地元ガイドの後に付いていくつもりだったからでしょう。
・各国のガイド連れ
これは、日本人なら日本のガイドというように、各国にガイドがいます。これもこの地域が専門というわけではないので、遅めのスタートになります。
(注記3)システム原型
システム原型とは、組織や人間が作り出す様々なダイナミックな振る舞いをもたらす代表的なシステム構造のことで、8つの基本型が有名である。「因果ループからSDモデルを構築する方法について–
システム思考8基本型の考察–」には、日本のことわざと対比しながら面白い解説があります。
http://www.muratopia.org/JFRC/sd/documents/Archetype.pdf
SD閑話-寄稿 了
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